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さすらいの天才不良文学中年

さすらいの天才不良文学中年

芸術とは 浮世絵 骨董

芸術には2種類あり(前篇)

 今更の話しではあるが、芸術には2種類がある。


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 時間軸を必要とする芸術と時間軸を必要としない芸術とである。

 何が云いたいかというと、芸術に身を任せる、つまり、ただ芸術を享受するだけであれば、そのような時間軸は必要としない。

 良い音楽であれば、それを聴くだけで心地よくなるし、良い絵を見ればそのまま「う~む」と唸るだけである。

 しかし、である。おいらがその芸術に携わろうとした場合、様子は変わって来る。

 具体的には、ピアノを弾きたいと思った場合、ピアノの弾き方を知らなければピアノは弾けない。いや、知るだけでもダメである。さらに、ピアノの練習をしなければならないのである。

 中学生のころ、おいらが音楽教室に置いてあったピアノで「猫踏んじゃった」を弾くにも練習が必要であったことを思い出す。

 これに対して、画を描くのは比較的簡単である。脳に浮かんだ絵を画用紙やキャンパスにそのまま描けば良い。油絵の場合は油絵の具の使い方を知っておく必要があるが、それは本質的な問題ではない。

 つまり、音楽を演奏する場合は、ピアノであれ、ギターであれ、楽器の演奏技術を習得する必要があり、それらのための練習時間が必要だということである。それがおいらの云う時間軸である。

 これに対し、画は才能だし、写真も才能である。

 誰でも画を描くことはできる。誰もが写真機のシャッターボタンを押すことはできる。無論、その絵や写真の出来に良し悪しはあるのだが、絵を描いたり写真を撮ったりするための技術習得に血の滲むような時間は必要ではない。

 だから、音楽のようなテクニックを習得するのにやたら時間が必要となる芸術と、画のようにテクニックを習得するのが比較的易しい芸術では、その有り様が180度違ってくるのである(この項続く)。


芸術には2種類あり(後篇)

 だから、おいらが自分でかかわる芸術は、時間軸のない芸術となる。


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 この年になって今更ピアノを弾こうとは思わない。もっともサプライズのために、好きな曲を一曲だけ弾くことを考えてみたりすることがあるが、それは夢である。

 俳句作りをしているのも時間軸が不要だからである。才能があれば俳句も面白いものである。何もおいらに俳句の才能があると云っている訳ではない。

 ここで脱線する。

 時間軸が不要ということは、先人の作品に感銘を受けた場合、おいらにもこの画なら描けると思わせることがある。それを、その芸術が未熟とみるのか、その本人(おいらのこと)が自惚れなのか、と考えると興味深い。

 日本人が好きな版画家に棟方志功がいる。

 志功の版画はオリジナリティにあふれ独特の画風であるが、その多くは白黒である。独特の画風ではあるが、パターンがほぼ決まっている。志功の版画かどうかは、素人でも判断しやすい。

 そこで、これならおいらにも描ける、いや、志功以上に巧い版画が創れると思う人物が現れても不思議ではない。

 昭和55年のことであった。棟方志功の贋作事件は数えきれないほど世に現れたが、この人物が起こした贋作事件の理由は出色である。

「棟方先生には悪いが、オレの作品は先生をしのぐよ」と云うのがその理由であった。

 事件は、関東の画商および名古屋のデパート展で志功の贋作が大量に出回って発覚した。捜査当局の手によって、静岡県伊東市の骨董商(当時52歳)が逮捕されたのだが、この贋作は出来栄えが良かった。

 逮捕された男は、留置場で志功の版画を作成するところを実演し、捜査官を唸らせたと云う。

 もとより、画を描くに技術の習得が不要と云う訳ではない。プロの画家の絵画技術は、素人の及ぶところではないのである。したがって、志功の版画技術が低いと云うつもりは毛頭ない。

 真似をするのは、つまり、贋作が生まれ易いのは、時間軸が相対的に少ない芸術の場合ということである。

 何が云いたいのか。

 芸術は才能である。その才能がより必要とされるのが、時間軸のない芸術ではないだろうか、と云うことである。難しい話しではあるが、最近はそう思うようになっている(この項終わり)。



老中阿部正弘

 浮世絵に興味を持って調べていくと、江戸時代のことが分からないと絵の評価が難しいということに気付くようになった。


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 江戸時代といっても300年近く続いた訳だから、1600年代の武家政治ビジネスモデルの完成、1700年代の江戸文化ルネサンス、1800年代前半の開国までの波乱万丈とその節々の時代を代表する浮世絵師を理解しなければならない。

 さて、そのことについては項を改めるとして、今回は老中阿部正弘のお話し。

 何故、老中阿部正弘かと云うと、水野忠邦が行った天保の改革によって浮世絵は弾圧にあうのである。美人画や役者絵はご法度であった。

 ま、この水野の失政は割愛して、次の次の老中首座(今で云う首相のこと)になったのが阿部正弘である。

 備後福山藩十万石の城主である。譜代大名で、阿部家からは正弘以前に3人の老中を出すという名門である。

 この阿部正弘は歴史学者によれば、若いときは端正なイケメンで大奥の女性までがよろめきそうになるほどの美男子であったという。しかも、性格は温厚で微笑を絶やさない。勉強熱心で人の話しは最後まで聞く。艶福家でもあり、早世の正室も側室も美人で有名であった。

 阿部正弘は39歳で老中職のまま急逝しており(1857年。一説によると暗殺の疑いもある)、その際、妖怪山内容堂が美貌の側室にご執心で是非ともと所望して顰蹙(ひんしゅく)を買ったという逸話が残っている。

 容堂、やるのぅ~。

 実は、今回はこれが書きたかっただけである。

 なお、阿部正弘は結局日米和親条約を結ぶことになるのだが、政治家としては無能であった誹りを受けてもやむを得ない。温厚で協調することが得意なだけでは、もとより時代は乗り切れない。



幕末の大博打(前篇)

 幕末とはいつごろからを云うのだろうか。


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 これには諸説ある。

 だが、幕藩政治体制がこのままでは持たないとの危機意識が芽生えたときからだとすれば、天保の改革(1841年)からと考えるのが理に適っているようだ。

 明治維新が1868年だから、天保の改革から27年しか江戸幕府は持たなかったことになる。

 世の中がひっくり返る理由は、何といっても経済である。戦争も同様である。経済が曲がりなりにも回っていれば、不平不満はあっても爆発することはない。だが、経済がにっちもさっちも行かなくなると、世の中を変えるしかなくなるのである。

 さて、その経済だが、天保7年(1836年)の大飢饉によって江戸の米は暴騰した。飢饉は東北だけではなく、関東一円に及んだため、その地方からの難民も江戸に流入した。それによって、米だけでなく、炭や油などの生活必需品までもが高騰したのである。

 普通、こういう物価の高騰は飢饉が収まれば一過性のものとなるはずだったが、その後も高値安定が続いたのである。

 庶民は困るが、収入がインフレヘッジされる訳ではない武士はなおさら困る。

 そこで、このまま放っておけば、徳川三百年が崩壊するとの危機意識を持った水野忠邦が幕末の大博打を打つのである。

 当時、「なぜ物価が下がらないか」ということについて、幕府も考えていたのである。

 水野忠邦が考えたのが、カルテル禁止による自由競争政策である。世の中の値段を決めているのは、悪徳問屋商人たちであり、物資はあるにもかかわらず、価格を談合して商品を独占している体制に問題があると考えたのである。

 これに対して、貨幣インフレ説を唱えたのが、当時の南町奉行、矢部定謙(さだのり)である。

 度重なる貨幣改鋳(改悪)によって貨幣価値が下がった訳であり、物価がそれに伴って上がるのは必然とする考え方である。

 当時にもインテリはいたのである(この項続く)。


幕末の大博打(中篇)

 江戸幕府の収入は、年貢のほかに貨幣の改鋳が大きな割合を占めていたということを知る人は少ない。


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 当時の幕府が紙幣の印刷をしなかったのは唯一の救いであるが、それでも小判に銀や銅を混ぜて品質を落とせばインフレになるのは目に見えている。

 しかし、当時の首相は水野忠邦(老中首座)である。幕府内の意見統一は矢部定謙南町奉行を更迭することによって自由競争政策となる。

 実は当時、水野忠邦は内密に大阪西町奉行に命じて、コメ、酒、塩、綿など主要16品目の物価高騰の調査とそのメカニズムを調べさせていたのである。

 そのレポートによれば、飢饉などにより生産者が減少しているにもかかわらず、捌き口(さばきぐち=需要)が多くなったことから、「生費(せいひ)不釣り合い(=需要と供給の不一致)」が原因で物価が上がるのは仕方がないと結論付けている。

 う~む、このレポートもまともである。

 しかし、このレポートも水野忠邦に無視されたのである。水野の考えは、だから、どうなんだ、そんな理屈を云ってもショウガナイである。どうやったら物価を抑えられるか、である。

 水野忠邦は何事においても極端であった。

 結局、カルテルを禁止させ、物価を自由に決めることができるようにと、世界に冠たる問屋組合を解散させることにするのである。そして誰でも自由に商売に新規参入することを認めるのである。

 考え方によっては、これは新自由主義を超えるスーパー自由主義である。

 そして、それに先立ち、あの悪名高い「奢侈禁止令」を発布するのである。そうすれば、高価なものは売買できなくなり、物価は自ずと下がると読んだのである。これが水野忠邦による天保の改革の第一歩であった(この項続く)。


幕末の大博打(後篇)

 水野忠邦の「奢侈禁止令」発布は、江戸の町をゴーストタウン化させた。


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 発布後、最初のうちは数週間もすれば撤回されるとばかり思っていた江戸っ子だが、水野忠邦は末端までこのお触れを徹底させたのである。

 高橋鐵氏によれば、上着を地味にし、下着をおしゃれにした女性がいないかどうかまで調べられたという。岡っ引きが白昼堂々衆人環視の前で、緋縮綿(ひじりめん)の腰巻をしていないかと若い女性のすそをめくったのである。

 いつの世も悪政となるとこういう下層役人がのさばることになる。

 さて、「奢侈禁止令」と並行して行われた自由政策である。

 物価を下げさせるために問屋を廃止したのだが、これが江戸中を大混乱に陥れたのである。

 確かに、問屋によるカルテルがなかったとは云えないが、長年に渡る問屋のビジネスモデルを全否定したということは、江戸の経済メカニズムまでも破壊したということである。

 それまでの流通システムが一気に崩れ、地方から江戸への物資の流入までもが危うくなった。問屋制度があるから信用貸ししていたという金融も破綻することになった。

 しかも、新規参入が自由だとしても新たに事業に参入するためにはヒト・モノ・カネがいる。いや、そのためには高度の技術とシステムが必要である。弱小資本による新規参入は事実上不可能であった。

 水野イズムは、スーパー自由主義を支えるためのインフラ整備なしでスタートしたことになり、いわば自殺行為に等しかった。

 何のことはない。生産は滞る。不景気で店は閉める。生活必需品まで手に入らなくなり、物価は一気に上がってしまった。

 そこで出したのが、物価を安くしろというお触れである。体(てい)の良い物価統制令である。これでは、商人もたまらない。原価割れで商売をするほど、江戸の商人もお人好しではない。ますます景気は悪くなってしまった。

 因果は巡るで、武士までもが干上がってしまい、結局、水野忠邦は3年後に失脚した。水野失脚の話しが市中に広まった途端、江戸っ子は水野邸に繰り出し、水野邸を堂々と襲ったという。このあたりの顛末は松本清張の「天保図録」に詳しい。

 何が云いたいか。天保の改革は失敗に終わったが、水野忠邦はこのままだと江戸幕府はもたないと認識していた。そこは偉い。だからこそ、天保の改革は幕末の大博打だったのだ。

 しかし、やり方が間違っていた。大博打は大失敗に終わり、その後10年で黒船が浦賀沖に来航、さらにそれからわずか15年で幕藩体制は終焉するのである(この項終わり)。


骨董と関東大震災(前篇)

 骨董の話しである。

 おいらが骨董好きになったのには、訳がある。それは、一冊の本がおいらの骨董の師匠の役目を果たしてくれたからである。


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 北大路魯山人の弟子であった、秦(はた)秀雄氏の「骨董入門」(昭和47年、池田書店)である。

 秦氏は、骨董鑑賞を二つに分ける。

 一つは、古典的な鑑賞法であり、徳川時代に確立された茶道などに則る方法である。

 いわゆる大名物や名物の格付けを行い、その格付けによって鑑賞法が決まるというものである。

 早い話しが、格付けの基準を知らなければもぐりということになり、名品や作者の名前、鑑賞の作法やしきたりを覚えることが鑑賞の提要となる。

 つまり、骨董は一部の限られた世界での出来事だったのである。

 しかし、この風潮は文明開化によって怪しくなり、やきものを近代的に見ようという機運が盛り上がってくる。

 その代表が浮世絵であり、それまで鼻紙だと思われていた浮世絵が海外で高く評価されることになる。

 すると、国内でも過去の価値基準に囚われない見方が勃興してくることになる。絵画鑑賞団体の九鬼男爵が音頭を取って、琳派の宗達や光琳が良いと云いだすと、岡倉天心の院展一派までが琳派の絵を尊重するようになるのである。

 つまり、従来のお点前スタイルの鑑賞法から離れて、自由な見方でいいじゃないかと云う気運が盛り上がったのである。

 この自由に鑑賞しようという見方が二つ目の鑑賞法である。

 その影響は絵画の世界から信仰の対象でしかなかった仏像にも及ぶ。仏像は、彫刻や美術品として考えられるようになったのである。

 そして、いよいよ骨董の本命、やきものにもこの考えが及ぶのである(この項続く)。


骨董と関東大震災(後篇)

 大正時代のことである。

 彩壺会が発足したのである。

 この会は、大河内正敏貴族院議員(子爵、工学博士東大教授)が作った、やきものの鑑賞団体である。毎月、山口という茶屋で陶学者の話しを聞きながら宴会兼陶磁器研究をやっていたのである。

 この会が最初に目を付けたのが、柿右衛門、鍋島、九谷などの色絵であった。研究だけにとどまらず、蒐集も行うようになったのである。

 こうして、大正12年9月1日、東京日本橋の三越で九谷の展覧会が開催される。

 口開けをやったら、当日の大震災で出品作品が灰燼に帰すことになったのである。あわれ、九谷の銘品もすべてが藻屑となれり(写真は日本橋三越)。


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 これが、骨董と関東大震災で云いたかったことであるが、やきものの歴史の中でこの会の果たした役割は大きい。

 従来は、茶道の枠の中でお点前とか云いながら渋い茶器を鑑賞してきたのに対し、美術的な見地から自由にやきものを鑑賞しようという気運を生むことに成功したからである。

 柳宗悦の李朝の陶磁器に対する自由な見方もこうした背景があって生まれることになったのである。

 そうして、陶磁器の鑑賞は茶道から独立し、北大路魯山人のように鎌倉のやきものに美を発見するようにもなった。

 骨董の鑑賞は、こうでなくっちゃいけない(この項終わり)。


七たび問うて骨董を疑え(前篇)

 先週、骨董の話しになったので、骨董のにせものの話しをする。


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 骨董の真贋には、昭和12年9月に京都の河原書店から出版された佐々木三味氏の「書画・骨董・偽物がたり」という古典がある。無論、絶版だが、幻の名著ということもあり18年前にダイヤモンド社から「骨董にせもの雑学ノート」として復刊された(写真上)。

 現在、次回の小説のための下調べをしており、この本を再読して膝を叩いたので、今回はにせものの話しとする。

 骨董の世界に金言がある。

 それが、「七たび問うて書画骨董を疑え」である。

「道具を見たら贋物と思え」とも云うらしい。それほどまでに書画骨董道具類には偽造されたものが多いのである。

 卑近な例で云えば、某テレビ局のなんとか鑑定団である。骨董好きの先祖が家屋敷を買える値段で投じた屏風や掛け軸などが二束三文だと鑑定されるケースが後を絶たない。

「残念ながら贋物です」として。

 それはなぜか。

 たかだかやきもの一つが李朝のものだというだけで数千万円もするからである。

 しかし、欲しいものは欲しい。世の中のルールは需要と供給である。欲しいものは売れるのである。

 しかし、李朝の茶器と云っても、もともとは生活用の雑器に過ぎない。元値はタダ同然である。

 そこで、二番品(業界用語で贋作のこと)を作ろうと考える輩が出てきても不思議ではない。贋作を作るための原価がいくらかかっても儲けはべらぼうである。ここに贋作が生まれる素地が生まれるのである(この項続く)。


七たび問うて骨董を疑え(中篇)

 ここからは、おいらの実話である。


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 先日、京橋(東京都中央区)の古美術商に立ち寄ったのである。京橋での仕事の合間に少し時間が取れたので、棟方志功の版画が目にとまった古美術商のドアをくぐったのである。

 ここで観た志功の作品は素晴らしいものであった。版画一枚とはいえ、百万円を下回らない。無論、鑑定書付である。

 そこで、店主と雑談を交わしたのだが、店主が店に置く商品には絶大の自信を持っていることにおいらは感嘆したのである。ま、それは当然と云えば当然であろうが(贋物を売った場合は、即座に倍額で買い戻すと保証していた)、そのプロ意識に脱帽したのである。

 何が云いたいのか。

 良いものを買うのであれば、こういうプロの店で買いなさいという、当たり前のことである。

 しかし、諸兄よ、市井にはひなびた骨董屋があるのである。骨董市というのもあるのである。パリには、伝統の蚤の市というものもある。しかも、最近では、ネットオークションが花盛りなのである。

 こういうところで、タダ同然に買った書画骨董が正真正銘の掘り出し物で、数百万円、いや、数千万円というケースがないことはない。おいらのような者はついつい足を運んでしまうのである。

 だが、結論から述べると、こういうところに本物があることは少ない。あるかも知れないが、稀である。

 先日も某ネットオークションを覗いていたら(これが面白いのが玉に瑕であるが…)、棟方志功の有名な版画「釈迦十大弟子二菩薩」が出品されていた。

 本物ならべらぼうな値段がつくはずだが、これが数十万円と云う値で取引されていたのである。だから、これを買う人はどういう人だろうかと思ってしまうのである。安い掘り出し物を手に入れたと思って買っているのだろうか。いらぬお節介と云えばそれまでだが、ネットオークションでは贋物に注意しなければならないのは当然のことである。

 特に、オークションの場合は最後の数分間で金額が一気にせり上がるので、平常心ではない心持のなせる業にはご用心。こういうのを業界用語で、椋鳥(むくどり)と呼ぶそうである。椋鳥とは相場に素人のことで、椋鳥は群れをなすからである(この項続く)。


七たび問うて骨董を疑え(後篇)

 それでは、どうしたら骨董の鑑識眼を養うことができるのだろうか。


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 前述の佐々木三味氏は「目利き」になることの難しさを説かれながらも、一にも二にも経験しかないと喝破されるのである。

 その経験の積み方で一番効果のあるのが、「買うが第一」であるとされる。しかも、贋物をつかまされるのが近道だと云われるのである。

 なるほど、大枚はたいて買ったやきものが贋物だとすると、これほど勉強になることはない。

 無論、本物であるに越したことはないのだが、自分の金で、しかも、自分の眼で買ったのである。買うこと自体が勉強である。

 だから、おいらのお師匠さんである秦秀雄氏も「惜しみなく金をつぎこむこと」と云われる。そうして10点も買えば、少しは骨董が分かるようになると云われるのである。

 これが経験だということであろう。

 それともう一つ、とにかく良いものを観ることである。良いものを観慣れていると、悪いものは自ずと悪いと分かるようになるのである。そのためには、やはり本物を見ておかなければ話しにならない。

 できれば本物を身近に置いておくのが良いのだが、自分で持たなくても、ちょっとした美術館には良いものが置いてある。そういうものを日頃観ていると観ていないでは、天と地との差があるということである。

 と、ここまで書いて、それではおいらが惜しみなく金をつぎこんでいるか、良いものを観慣れているかと問われれば、はなはだ心許ないのである。

 おいらもまだまだ発展途上の身である(この項終わり)。



ネットオークション花盛り

 先日もこの欄に書いたが、ネットオークションが花盛りである。


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 オークションそのものには問題がないと思うのだが、出品されているものが骨董や美術品の場合、贋作ではないかと思われるものが散見されることがあるので、少し書き込む。

 本来なら相当高額であるはずのものが数万円で取引されているのである。

 これを分析する。

 出品する方は、本物であれば、出品するはずがない。怪しいものでも出すのである。いや、怪しいものだから出すのである。

 何のことはない、これは現代のババ抜きである。

 買う方も買う方で、ババを見せられているな、つまり、本物のはずがない、しかし、ひょっとしたら、いや万が一、本物だったら儲けものだと思っているのかも知れない。

 稀に何も知らないで本物をタダ同然で出品する人もいるのである。

 だから、そうだとすれば、これはアイコである。

 ただ、ネットオークションで本物と思って買った人と出品者との間にトラブルがあることも珍しくはないようだ。

 特に鑑定書付きの場合である。

 しかし、この鑑定書が曲者である。鑑定書そのものが偽造されることが多いからである。

 そこで、本物だという鑑定書が貼り付けてあっても、それが私的な鑑定書の場合は「公的鑑定書ではないので、模写扱いとなります」とネット画面上にはっきりと書いていることに注意しなければならない。

 要するに、上手い話しはそうそう転がっていないということであろう。




大浮世絵展

「大浮世絵展」が両国の江戸東京博物館で開催されている。


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 今年の始めから錚々たる浮世絵が展示されていると聞いていたので観に行くのを愉しみにしていたのだが、開催期間が3月一杯と勘違いに先日気付き(3月2日までの開催)慌てて昨日、両国まで足を運んだ。


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 おいらの目当ては無論、写楽である。

 これまで何度も写楽は観ているが、写楽のことを知れば知るほど何度観ても見飽きることがない。

 さて、その「大浮世絵展」である。評判が良いせいか、また、残り僅かの期間ということもあって、熱気はプンプン。


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 会場も人でごった返していたが、「国際浮世絵学会創立50周年記念」、「江戸東京博物館開館20周年記念特別展」と銘打つに相応しい作品の展示で見応えは充分であった。

 一言で述べると、本邦の浮世絵の歴史がこの展示のみでよく分かるように作り上げられていた。おいらはこの手の浮世絵展会場に何度も足を運んでいるが、これほど体系的にしかも大量の浮世絵を一堂に会した例を知らない。

 おいらは約3時間かけて会場を回ったが、終日いてもこの特別展は十分愉しめるように仕上げてある。

 しかも、出品リストにあるように開催期間中、何度も展示替えを行っていたので、最低でも2回は観に行った方がよい展示の仕方なのである。しまった、早くから観ておくのだったと云っても後の祭りである(この「大浮世絵展」は3月から名古屋で開催されるので、名古屋まで出向くのも一つの解決策ではあるが…)。

 ところで、展示されていた写楽は3点。その2点は大英博物館所蔵で、残りの1点はシカゴ美術館所蔵。

 他の浮世絵も同様で、国内の美術館所蔵品もあるのだが、海外の美術館所蔵品の多さには驚かされる。本当に良いも浮世絵は、実は海外にあるのだ。

 もう一つ、浮世絵で忘れてならないのが春画(枕絵)である。

 大英博物館で日本の浮世絵による春画展が開催され大好評を博したことは記憶に新しいが、本邦では一向に開催されそうにもない。海外で開催されて、本家本元の日本で開催されないと云うバカな話しが今でもこの国ではまかり通っているのである。

 日本の浮世絵学者や研究者が春画を研究しないで浮世絵の研究者でございます、とは云って欲しくないよなぁ。清長の大傑作「袖の巻」や歌麿の至宝「歌まくら」の本物(いずれも数千万円はするだろう)が展示されていなくて、国際浮世絵学会もないよなぁ。

 閑話休題。

 日本の浮世絵が欧州の画家に与えた影響がいかに凄かったかは、今回展示されている本物の浮世絵を観れば簡単に理解できるというものである。

 それにしても、目の保養であった。本日を入れて後三日しか開催日がないが、ご興味のある方は是が非でも両国へ。


アートフェア東京に行く(前篇)

「アートフェア東京」が有楽町の東京国際フォーラムで3月7日(金)から3日間開催された。


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 おいらはこの入場券を神田神保町の「ボヘミアン」書店でいただいたので二日目に出向くことにした(入場料2000円。その価値は充分にあり)。


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 会場に入って、まず目を引いたのが老舗の画廊である「日動画廊」。

 藤田嗣治が展示されていたのだ。ブースの店頭にフジタが1934年(昭和9年)日動画廊を訪ねたときの経緯が述べてある。

 ある日、フジタはふらっと日動画廊に現れたのである。この時フジタは開設して2年目の数寄屋橋そばの画廊に顔を出したのである。

 フジタ二度目の帰国のときであった。

 一度目の帰国は巴里からの凱旋であった。日本橋の三越本店で個展を開催して大成功であった。世界のフジタで通用したのである。しかし、2回目の帰国は少々異なっていた。このときの評判は、諸般の事情もあってあまり良くはなかったと云われている。

 だが、フジタもメシを喰わなくてはならない。自分の描いた絵を高く売ってくれる画廊が必要なのである。フジタが訪れたのはそういう背景があってのことであった。

 ときにフジタ48歳であった。

 東京に帰るまでに中南米の旅で描きためた60余点は、フジタが画廊に持ち込むと開展三日目で全点売れてしまうのである。フジタは再び活気を取り戻し、日動画廊も一流の画廊になるという物語である。


 閑話休題。

 このアートフェアについて述べる。

 このアートフェアは、早い話しが画廊や美術商が自分たちの扱っている美術品や骨董をPRする場所である。そういう店が140店集まってデモンストレーションをしているのである。

 展示されているのは絵画(油彩、日本画、リト、浮世絵、イラストなど)、彫刻、骨董(陶磁器、茶器など)である。

 絵や陶磁器が好きなおいらとしては、こりゃたまりませんなぁ(この項続く)。

アートフェア東京に行く(後篇)

 このアートフェア東京を観ての感想である。


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 140もの美術商が自慢の美術品を展示しているのである。見応えのあるものばかりである。

 だが、おいらがこの展示会を観て感じたことは、やはりオリジナリティに優るものなしである。

 芸術の神は、独創性の中に宿るのである(このオリジナリティのことについては、別途項を設けたい)。


 さて、今回のアートフェア東京で特筆すべきは、日比谷(有楽町)の「角匠」が出店していたことである。

 ブース内に素晴らしい春画が展示されており、特においらが名品だと思っている、清長の「袖の巻」の本物(極美品)が展示されていたのである(写真上。朝日新聞記事の中央部)。

 おいらは写楽を契機として浮世絵を調べ始めたのだが、春信、清長、歌麿、北斎など浮世絵を描いた絵師で春画を描いていないものはいない。だから、浮世絵研究は春画も同時に調べなければ片手落ちなのである。

 しかし、春画は浮世絵の研究から除外されてきたのである。

 ついこの間まで、刑法上のわいせつ物として処遇を受けていたという不幸な歴史があったことも影響しているようだ。だからと云う訳ではないが、浮世絵学会でも春画の研究では主流になれないのである。

 翻って海外に目を向けてみれば、ロンドンの大英博物館で特別展「春画―日本美術における性とたのしみ」が今年の1月まで開催されていたのである。

 この特別展は春画を集めたものとしては過去最大の規模であり、16歳未満であっても保護者の同伴があれば入場が可能であった。大英博物館の所蔵品のほか、日本などから借りた浮世絵など約170点が展示されたのである。

 ところで、この巡回展が日本でも開催される予定であったが、主催者や展示する美術館などが二の足を踏んで未だに実現は難しいらしい。

 日本の至宝である春画を観るには海外まで行かなくてはならないというのは、ブラックユーモアでしかないのぅ。

 以上、今回の美術展はそのことを考えさせてくれるアートフェアであったのじゃ(この項終わり)。


古唐津の魅力(前篇)

 日比谷の出光美術館で「開館50周年記念 古唐津」展が開催されている(17年3月26日まで開催中)。


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 云わずと知れた古唐津(「こがらつ」と読む)、である。

 陶磁器鑑賞が趣味のおいらにとって、古唐津は咽喉から手が出るほどの逸品である。あの小林秀雄までもがメロメロになっている。

 その招待券を気心の知れたお方から頂戴したので、いそいそと日比谷まで出向いた。

 出光美術館は、出光コレクションを展示する美術館として昭和41年から開館している。帝国劇場ビルの9階に位置している。

 展示は、出光石油の創業者である出光佐三(いでみつさぞう)氏(1885年~1981年)の陶磁器コレクションが中心である。日本の書画、中国、日本の陶磁器など東洋古美術が中心で、ここの美術館展は昔から定評がある。

 余談だが、出光コレクションを代表するルオーの作品群もここの専用展示室で併設展示されている。

 さて、古唐津である。

 古唐津を一言で述べれば、桃山時代の陶芸の至宝である。

 桃山時代の茶人や大名の高い評価を得たのはもとより、現代に至ってもやきものの王様だね。

 小林秀雄や川北半泥子が高く評価し、陶芸に造詣のあった出光佐三をも魅了する。

 その出光佐三は古唐津を生涯にわたって蒐集、愛し、古唐津だけで総数300件を超える本邦最大のコレクションを成した。

 それらが一同を会して展示されるのである。さすが、出光美術館開館50周年記念展である。

 こんな愉しみな陶磁器展は、またとない(この項続く)。


古唐津の魅力(後篇)

 古唐津の魅力とは、では何か。


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 それは、やはり何と云っても堅く締まった土の味わいである。

 古唐津を作ったのは、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に連れてこられた朝鮮の職人である。

 彼らは唐津(佐賀県)の土に着目し、それまでの日本にはなかった新しいタイプの焼き物として、庶民が使う器(塩やみそなどを入れる壺(つぼ)など)を創ったのである。

 古唐津の特徴と魅力は、力強くて焼き締まる土である。荒い土でざっくり焼かれたように見えながら、その肌は硬く締まっており、同時にとろみもある。それが土の味わいである。

 唐津市周辺には大量の砂岩があり、ここから質の良い土と砂を取り出すことができるからだという。なお、古唐津の原料は粘土だけではなく、砕いた石も原料にしているという説がある。

 また、古唐津の魅力はシンプルな絵付けでもある。

 古唐津は、日本で初めて絵付けを施した焼き物だ。唐津焼は観て愉しむことのできるのである。

 この文様が描かれた唐津焼を「絵唐津」とも呼ぶ。古唐津の文様の魅力は、筆の運びの素晴らしさにある。

 筆遣いがあてた太い線と、それをつなぐ伸びやかな細い線のコンビネーション。

 大地からまっすぐに伸びる野の花を描く場合、筆を手前に引いて逆さまから絵を描くのである。いいかい、逆さまだよ。そうしないと筆の運びがスムースに行かないからである。

 うへ~、考えているのだねぇ~。

 しかも、シンプルな絵。丸十文だけの絵柄は絶品だ(写真上)。

 そうして、古唐津の魅力のとどめは実際に使ってみての肌のとろみであろう。

 おいらは寡聞にして知らなかったのだが、徳利を最初に造ったやきものは古唐津だそうだ。もともとは西洋の酒を入れるガラス瓶をモデルにして酒入れを造ったのが本邦の徳利なのである。

 酒とともに器を一緒に味わう。古唐津こそやきものの肌のとろみを味わう愉しみがあるんだねぇ。

 いやぁ、まいった、まいった(この項終り)。


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